味を鍛える
週間朝日 味を鍛える 61

写真=今井一詞 文=山本水絵
料理のことだけ考えてやまないダリをもうならせた感性と技
酒井一之さん

『厨房に箸はおいていません。お客さんにナイフとフォークを出して、自分たちが菜箸で料理するというわけにはいきませんから』
こう語る酒井一之シェフ。15年のフランス滞在を終え、渋谷にヴァンセーヌを開いてから19年。素材こそ違うが、 フランスのころと同じ味の料理を出し続けている。しかし、それをことさら強調しない。体が味を覚えている。だから普通に腕を振るえば、 自然にフランス料理が生まれ出る。ただそれだけのこと、肩のこらない温かい雰囲気で客を迎える。

メニューに載っている料理やスープ、デザート類はできる限り作り置きをせず、注文が入ってから準備する。だから厨房は大忙しだが、 そのぶん味が生きてくるし、材料に無駄が出ない。何ごとも近道を好まないシェフの主義の表れである。果実のグラタンは、 パリで温かいデザートをリクエストされたときに浮かんだもの。打てば響く感性に感激したスペインの画家・ダリが、 返礼として画集にサインをしてプレゼントしてくれたという逸話つきの一品だ。

「料理のことだけ考えていれば、料理法は自然と浮かんでくるものです」簡単に答えるが、隠れ家をのぞくと、 収蔵している料理の資料の量に驚かされる。「好きな料理や食材は年々変わりますから、飽きることがないんです。文化ですからね。」 手元の本に視線を落とすと、古いレシピを読み始めたのだった。